コラム「死に様エピソード 」

チャーリー・パーカー

【特集】チャーリー・パーカー『With Strings』

〜“薬中の天才「バード」”が見た空、そして最期の部屋で聞こえたテレビの笑い声〜

1940年代、ジャズはダンスのBGMから“聴く音楽”へと脱皮する。
その急旋回の先頭にいたのがアルトサックスの革命児、チャーリー・パーカー:通称“バード”だった。 バードの由来には諸説あるが、彼のスピード、自由奔放なフレージングを思えば、思わずうなづいてしまうところがある。

死に様エピソード

〜スタンホープ・ホテル、バロネスの部屋で〜

1955年3月12日、ニューヨークの高級ホテル「スタンホープ」。パーカーは友人でパトロンの“ジャズ・バロネス”ことパノニカ・デ・コーニグスウォーターのスイートにあったソファに横たわり、テレビ番組(ドーシー兄弟のショー)を眺めていたという。そこは日常の雑踏から離れ心休まる唯一の避難所だった。椅子から半身起こし、ふっと力が抜けるように崩れ落ち、そのまま帰らぬ人となった。享年34。医師は荒れ切った身体を前に「53歳」と誤認したという逸話まで残る。

直接の死因は麻薬による多臓器不全という説が有力である。12歳のころアンフェタミンが解けたコーヒーを知らずに飲んだのが麻薬歴のはじまりともいわれている。十代半ばにはヘロインの常用からアルコール、鎮静剤、興奮剤が入り乱れ、依存は生涯ついて回る。
1946年ロスでのダイアル・セッションでのエピソードは「崩壊」の一部を物語る。
プロデューサーが一人で立てないバードをマイクスタンドに支えていたが、演奏は不安定になりアドリブが乱れた。ヘロイン切れによる禁断症状だった。その夜ホテルでたばこの火をベッドに落とし火事騒ぎとなり心神喪失状態のバードは全裸でロビーを走り回るという奇行に及んだ。この事件を契機にロサンゼルス近郊のカマリロ州立精神病院に6か月入院させられた。この入院を経て、少なくとも一時的にはヘロインから解放された状態で復活の演奏を見せた、とも伝えられている。バード25歳の出来事だった。

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「コードに翼を生やした男。」

アルバム概要と逸話

『Charlie Parker with Strings』(1949–50)

「ビバップは難しい」というイメージをくるりと裏返した、甘美なストリングス編成の名品。スタンダードの旋律を、バードが“コード進行”に基づく即興で縫い直していく。200bpm級の快速でも同じ論理で突き進むのが彼の神技――ビバップの核心は、速いテンポ、複雑な和声進行、そしてコード進行(時に置換を交えた)に根ざす即興にある。聴きどころは「Just Friends」の最初のブレス。弓の海面からいきなり跳ね上がるように、二拍目で音列が立ち上がる瞬間、部屋の空気が変わる。 ストリングスの絹の手触りと、バードの鋼のライン。この“柔×剛”のコントラストが中毒性を生む。“とんでもなく歌がある”一枚。

アルバム写真と曲リンク

Just Friends(with Strings)

April in Paris(with Strings)

Summertime(with Strings)

結び:死に様は、美学ではない

パーカーの死はロマン化できない。多臓器に負荷をかけ続けた長年の依存と病。34歳で命が尽きたのは、あまりにも早いのか、彼なりの燃え尽きた寿命だったのか。けれど、バロネスの部屋という“避難所”で息絶えたことは、彼の孤独の深さと、彼を支えた人々の愛情を同時に照らす。
それでも音は生きる。同時代の証言・研究は、バードの創造力を薬物に還元する俗説に警鐘を鳴らしている。天才の根は、異常なまでの練習量と理論的探究心にあったことを忘れてはならない。

もしバー(Jazz D-Room)の片隅で『With Strings』が流れたら、最初の8小節だけでいい。コードに翼を生やす、その瞬間を、そっと見届けてほしい。

参考・出典

  • バード最期の場(スタンホープ、バロネスの部屋/退去の顛末):The Guardian, American Masters(PBS), Wikipedia(Pannonica de Koenigswarter)ほか。
  • “12歳のコーヒー”証言と初期依存の経緯、46年崩壊〜カマリロ:ARBAN、学術レビュー、Wikipedia(Charlie Parker)。
  • ビバップの特徴と革新点:Wikipedia(Bebop/Jazz)。

※「12歳のコーヒー」については証言ベースの記述で、資料により表現や年代差があります。記事では出典を明記したうえで「有力な説」として紹介しました。

リーモーガン

〜スラッグスでの最後の演奏、そして銃声〜

1972年2月19日、雪が降りしきるニューヨークのロウアー・イースト・サイド。
ジャズクラブ「スラッグス・サルーン」では、リー・モーガンが熱のこもった演奏を披露していた。

その休憩時間、静かに店に入ってきたのが、彼の内縁の妻、ヘレン・モーガン
彼女は、かつて薬物に溺れていたリーを救い、住む場所、食事、日常生活——すべてを整え、音楽活動に立ち直らせた献身の人だった。

しかしその夜、彼女の目に映ったのは、リーが若い女性(ジュディス・ジョンソン)と親密にしている姿だった。

激しく動揺したヘレンはリーと口論になり、彼によってクラブの外へ追い出される。
そのとき、彼女のバッグから銃が落ちた。
ヘレンはそれを拾い上げ、再びクラブへ戻ると——リーの胸を撃った。

クラブは一瞬にして騒然となり、観客はパニック状態だった。

胸元から静かに赤いものが広がっていくのを呆然としてヘレンは見つめていた。
その夜は大雪で交通が麻痺しており、救急車の到着は遅れた。
彼はクラブの片隅で、帰らぬ人となった。

事件後、ヘレンはその場で逮捕され、後に有罪判決を受けた。

彼女の人生、そしてこの事件の真相に迫ったドキュメンタリー『I Called Him Morgan』では、晩年の彼女のインタビュー音声が残されている。

「私が彼を殺した。でも…彼が死んだ瞬間、私も終わったのよ。」

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「ファンキー・ジャズの革命児、死に場所はステージだった」

アルバム概要と逸話

『The Sidewinder』は1963年12月に録音され、翌年Blue Note Recordsよりリリース。
ジャズとソウル、ブルースの融合という革新的なアプローチは、のちのジャズ・ファンクへとつながっていく。

タイトル曲「The Sidewinder」は、録音中にトイレで思いつき、トイレットペーパーにメモしたという逸話が残る。
レコード会社の期待を裏切るヒットを記録し、ジャズアルバムとしては異例のビルボード25位にまで上昇した。

この成功でリーは再び脚光を浴び、精力的に活動を続けるが、私生活は徐々に崩れていった——。

アルバムの写真と曲のリンク

銃声のあとにも、音楽は鳴り続ける

リー・モーガンの命は突然奪われたが、その音楽は永遠に生きている。 ジャズが“生”を鳴らす音楽だとするなら、リー・モーガンのトランペットは、命そのものを吹き込んでいた。

今宵、バー(Jazz D-Room)の片隅で『The Sidewinder』に耳を傾けてみてください。
そこには、命を賭して吹かれた音がある。

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